日本初のフライフィッシング教書「毛鉤釣教壇」パート1

2020/12/23フライフィッシング,書籍,歴史,金子正勝

我が国におけるフライフィッシングは日本古来のアユやハヤを対象とした蚊針釣りの流れ、職漁師のテンカラの流れ、19世紀のイギリスから日本の上流階級・知識人へ伝えられた遊戯振興と水産業が一体化した鱒釣りの流れ、そして20世紀に入ってアメリカ帰りの商社マンたちが持ち帰った中産階級のスポーツフィッシングとしての流れの4つが絡み合い、時にはお互いを否定したりしながらも西洋式の活版印刷が日本でも本格化してから約70年の時を経てついに一冊の専門書となりました。

貴重な情報が多いので、当時の空気が伝わるようにしながら少しずつ紹介していきたいと思います。

金子正勝「毛鉤釣教壇」初版(釣之研究社、1941年3月20日発行)

当時の釣りの出版社としては大手であった釣之研究社。この本が企画されていた段階ではまだ中止と決まっていなかった東京オリンピックが開催されることを見込んで、どこの出版社も外国人観光客たちやスポーツ特需を念頭に入れていた頃です。観光ガイドブックはもちろん様々なスポーツのグラフ誌も刊行される中で、フライフィッシング愛好家のためにフィールドで読みやすいポケットサイズの本が作られていたということは、すでにフライフィッシングが趣味的スポーツとして定着しており、巻頭イラストには英語のルビもふってあるということは日本人のアングラーが連れ添って英語圏のアングラーと一緒に釣りに行くことを念頭に入れていたはずです。

表紙とカバーケースにはサーモンフライが描かれた当書は幅90mm、高さ140mm、厚さ23mmのポケットサイズに380ページもの情報が収録されており、「鱒の部」ではフライフィッシングがタックルからフライまで詳しく解説され、「鮎の部」では蚊針を使ったドブ釣り、「はや(うぐい)の部」ではウキを使った流し釣り、さらには「やまべ(おいかわ)の部」「わかさぎの部」まである念の入れようです。本編の後には当時の都心の釣具屋や釣具メーカーの広告だけでなく東急東横線の広告も掲載され、首都圏のアングラー向けに出版されたことがわかります。

この本が出版された1941年という年

今回入手できた初版本にはくっきりとした万年筆の字で「S.Yagi」というファーストオーナーが自分の持ち物であることを記すため1941年4月10日という日付とハンコが押されています。この本が出版されたのが3月20日ですので、出版社のある東京もしくはその近辺にお住まいの方で、サインの確かさと英字体の繊細な筆運び、サイン位置のバランスや滲んだ「S」を書き直すところといい、文書を毎日取り扱うホワイトカラーの職業の几帳面な方であったことでしょう。しかもサインと日付のフィニッシュに洗練も感じられます。

「1941年4月10日 S. Yagi」と記されたページ

この「八木さん」ですが、推測ですが英文記帳に非常に慣れた筆遣いであることから、輸入書籍を取り扱われていたか、貿易関係もしくは海外送金が関わるお仕事をされていた方だと思います。お医者さんもしくは大学の先生であった可能性も高いです。この年はすでに日本が中国との全面戦争に突入しており、ナチスドイツとファシスト・イタリア、ヴィシー・フランスと結んだ大日本帝国はイギリス・アメリカ・オランダとの関係が最悪な状態になっており、「ハルノート」で有名なアメリカのハル国務長官と日本の野村大使が交渉を開始した直後です。重く暗い時代の空気の中で唯一心を踊らせる趣味の本を手に入れて何を想いサインを残されたのでしょうか・・・。

フライフィッシングの祖国であるイギリスはナチスドイツとの全面戦争の最中。本国ではバトル・オブ・ブリテンを戦っている最中に、ナチスドイツのアフリカ軍団が北アフリカのイギリス軍と激戦となっており、Uボートがイギリスへの支援物資を積んだ船団を攻撃している最中です。ナチスドイツの占領地域ではユダヤ人絶滅計画のためのシステムが完成しており、絶滅を目的とした収容所が占領地各地に作られ、ソ連との戦争の中では進軍と同時に占領地のユダヤ人やパルチザンを皆殺しにするアイザッツグルペンが住民を恐怖のどん底に叩き落としいました。

日本の鱒釣り産業のパートナーであるアメリカと日本は戦争準備をすでに始めており、両国が海軍力の充実を図る中で戦艦ミズーリが起工され、アメリカの空軍義勇兵が中国へ派遣され、いつどちらかが開戦してもおかしくない状況の中で、日本は連合国側との交渉が決裂。運命の12月8日を迎えてしまうことになります。ハワイ真珠湾でアメリカと、マレー半島でイギリスとの全面戦争。ついに日本も世界大戦へ参入して、フライフィッシング大国であるイギリスとアメリカと殺し合いを繰り広げる狂気の時代を迎えてしまうことになります。

八木さんがその後どうされたのかを知る手がかりは残されていません。

1941年に始まり1945年まで続いた太平洋戦争で失われた尊い命は連合国側・枢軸国側を合わせて戦闘員だけで650万人以上、民間の犠牲者は直接・間接被害合わせて3,500万人以上・・・。戦闘で亡くなった方の何倍もの方達が、当時の貧しいインフラや食糧事情、衛生体制の中で家や仕事を失うことで飢餓、疫病、人災などで亡くなられたのです。

フライへの熱い情熱

そんな戦争の時代を生き抜き、現代へ伝えられたこの本の巻頭には綺麗にカラー印刷されたフライのイラストが一覧で掲載され、イギリスやアメリカの原本があったであろう英語名も併記されています。

巻頭にはカラー印刷された「湿毛鉤(ウェット・フライ- Wet FLY)」と「乾毛鉤(ドライ・フライ - Dry FLY)」の一覧
SPINNER、OLIVE、FANCY FLYなど中禅寺湖北西部および流入河川(当時は禁漁では無かった)で使われていたであろうウェットフライたち
DUNなど湯川のマッチザハッチで使われいたであろうドライフライたち 「ハーディ」の文字もある

この本の歴史的な意義と位置

イギリスから日本へフライフィッシングが上陸してきたのが19世紀後半であったとはいえ、江戸時代を通じた日本人の釣り文化と出版技術の熟成の度合いを考えると正直言ってこの本は登場したのが比較的に「遅い」と言えると思います。原因は初期の「鱒釣り」が「お殿様とお公家さん」および彼らの周囲にいる知識人だけで独占されてしまったことで、デモクラシーと情報社会を支える都市部の中産階級へ広まるまで時間がかかったことだと思います。

しかし、太平洋戦争直前にこれだけの本が出せるほど毛鉤釣りのポテンシャルが高かったことは事実であり、トラウトだけでなく、鮎やハヤ・オイカワと言った都会近郊のスポーツフィッシュもカバーする、幅広い視野と見識は現代の私たちも見習うべきだと思います。

フライフィッシングの歴史の中での位置付けについてはこちらの年表をご参照ください。都度更新しています。

まとめと続き

実は同じ本を何年も前に入手していましたが、きちんと中身を紹介するためにもう一冊入手しました。イギリスやアメリカのメンバーを抱える当クラブにはフライフィッシングを通じた国際交流のミッションがあること。どんな激動の時代にも嗜まれ続けてきたフライフィッシングの持つ「癒し」や「祈り」を通じて、この釣りの本質を捉え直したいと考えたからです。

さらに研究が進んだ時点で、この本と縁のある某・渋谷のフライショップなどでイベントができないか考えています。ご興味のある方はお問い合わせください。

次回は作者の方や中身について紹介していこうと思います。

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