釣魚紳士:トーマス・ブレーク・グラバー (1838-1911)

2023/11/03イワナ,グラバー,ビワマス,フライフィッシング,ブルックトラウト,ホンマス,中禅寺湖,大島商店,幕末,日光,明治時代,湯川

日本では明治維新の立役者の一人として記憶されているトーマス・ブレーク・グラバー。幕末志士たちへの支援や三菱を創業した岩崎弥太郎および小弥太親子との深い関係、日本初のビール会社であるキリンビールの前身を作るなど、日本の近代史や文化史へも多大な貢献をしたグラバーですが、実は彼が日本へ初めて西洋式毛鉤釣り、すなわち現在のフライフィッシングを持ち込んだ人だと言うことはご存知でしょうか。その波乱万丈な人生のお話です。

商社マンとしてのグラバー

スコットランド北東部のアバディーン出身のグラバーが初めて日本へやってくるきっかけは、香港に本社のあるお茶から麻薬「アヘン」まで手掛ける巨大貿易商社ジャーディン・マセソン社から派遣されて日本との生糸やお茶の貿易を行う仕事でした。

File:HK TheJardineNoondayGun Fired.JPG - Wikimedia Commons
香港では今もジャーディン・マセソンが設置した大砲を正午に礼砲として撃つ、「ジャーディンの正午礼砲」が行われています。

行動力あふれる目利きの商社マンであったグラバーは2年ほどしてパートナーと一緒に自らの貿易商社「グラバー商会 (Glover Trading Co.)」を立ち上げて、ジャーディンの代理店を行うだけでなく、政情不安な日本を相手に当時の大英帝国が世界シェアを誇っていた兵器ビジネスに着目します。故郷のスコットランドは造船業や鉱業が盛んです。兄弟や親戚の協力も目論んだ大掛かりなビジネスに取り掛かりました。

しかし当時の日本は尊王攘夷の吹き荒れる外国人にとっては危険極まりない政情不安な国。しかも彼の本国の大帝帝国は幕府との間に協定を結んでいて、本来は幕府以外との取引は出来ない状況でした。ただの野心家だけではとてもやっていけない環境下で、自らが反骨精神のあるスコットランド人であることが日本の若い思想家たちとの間に強い共感を産んだのか、日本へ深い関心を抱くようになって、香港のジャーディンから「アヘンを日本へ売れ」と言われても頑としてはねつけ、倒幕の志士たちと一緒に薩摩・長州・土佐藩と行った明治維新の原動力となった反政府勢力へ強い繋がりを持つようになり、敵味方が入り乱れた情勢の中で、反幕・佐幕両方の藩に銃と弾薬を掛売りで、さらに軍艦の発注代理店としてマージンビジネスまで手掛けるようになります。薩摩藩の若きリーダーたちの留学も助け、五代友厚らの留学をサポートすることまでやっていました。

リスキービジネスから堅実経営に

本業の方では香港へ送るための製茶工場を作ったほか、佐賀藩へ協力して当時の最先端エネルギーである石炭を採掘する高島炭鉱を作ったり、スコットランドを見習った造船所を作ったり、蒸気機関車の導入を進めたり、縦横無尽の働きぶりをしていました。グラバーの作った素地が無ければ、三井・三菱両財閥の石炭輸出ビジネスも成り立たなかっただろうと言われています。

これだけ明治維新に関わって巨大な財を築いた!と思われていますが、兵器ビジネスの方はリスクが高すぎて各藩からの掛売りの代金を回収することもままならい状態だったようです。このためグラバー商会の経営は破綻してしまい、炭鉱の仕事を繋ぎとして三菱の岩崎家の顧問となって東京へ移って鉱山事業やビール事業などへ取り組むようになりましたが、むしろこちらの方が本来のグラバーの姿だったのかもしれません。

オペラ「蝶々夫人」のモチーフに?

長崎では五代友厚の仲人で日本人の妻ツルさんと結ばれ、東京へも一緒に引越し最後まで連れ添った夫婦でした。残念ながら(?)よく言われるプッチーニのオペラの「モデルだった」と言われるようなドラマチックな世界とは全く異なる展開です。そもそもお金に堅実(ケチとも呼ぶ)で有名なスコットランド人と明治女の奥様です。全然違うと思いますが・・・。

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長崎グラバー家のその後

ツルさんと一緒になる前に愛人だったマキさんとの間に生まれた長男は帰化して倉馬富三郎と名乗りイギリスとアメリカに長く留学した後、長崎に戻って自ら実業家として「リンガーハット」のネーミングの由来となった有名なリンガー商会(創設者は元グラバー商会の社員)の重役となって活躍しました。倉馬さんは自らが長崎の市場を回って絵師へスケッチを取らせて日本初の魚類図鑑コレクションを発刊しただけでなく、スコットランドの親族から船を調達して日本のトローリング漁業の発展にも大いなる貢献をしました。ビジネス手腕もさることながら、元祖「さかな君」だったのです。これはこれですごい二代目です。

日本史上初のフライフィッシャーになるまで

東京へ妻と一緒に引越して三菱関係の仕事を本格的にするようになったグラバーですが、引退準備の一貫だったのでしょう?当時ヨーロッパ諸国の大使館別荘地となっていた日光へ足を伸ばしてた時に、まだ穴場であった中禅寺湖で鱒釣りを体験し、これは面白いと本格的なトラウトフィッシング環境を作るレジャー計画に取り掛かるようになります。それも下界である日光ではなく、華厳の滝の上である中禅寺湖から先の奥日光です!

グラバーがやってくるもっと前の江戸時代の中禅寺湖は修験道(山伏信仰)二荒山神社の霊場として、殺生や釣りなど持ってのほかの天空の世界。しかし明治になった当時の宮司さんの理解があり、星野定五郎と言う地元の釣りキチが日光を流れる大谷川のイワナやウグイなどを背負って滝の上まで持っていて放流したのが数年で見事に繁殖成功!この快挙の知らせは県だけでなく東京まで知られるようになり、これまでのイワナやイワナに混じって放流されたヤマメだけでなく、二荒山社や農商務省水産局によって琵琶湖の「ビワマス」が持ち込まれたり、中禅寺湖はトラウト・レイクへ進化していきます。

ところが霊場のままなので建前は「釣り禁止」のところ、地元民の密漁が絶えずこれじゃあいかんと目をつけたのが元々は群馬出身の士族で日光清滝で先生をやっていた大島藤三郎。藤三郎の学校の分校にいたのが先の星野定五郎。藤三郎は中禅寺湖に漁協を作り、明治政府の実習生を受け入れるような立場になっていきます。

まさにこの頃の日光にぶらっと遊びに行って中禅寺湖の美しさとトラウトフィッシングの面白さにハマってしまったグラバーは自分の別荘を作ることに決めます。この間にグラバーの方から幕末士族の藤三郎に何かビビっと来るものがあったとされていますが、実際のところはグラバーが釣れずに凹んでいる所を教師肌の藤三郎が見てられずにガイドして仲良くなったと思われます。グラバーは中禅寺湖大崎に自分の別荘を建設する間、この藤三郎の事務所に寝泊りすることになり、ここへイギリスから取り寄せたフライタックルを運ばせて日本初のフライフィッシャーとなったのでした。

さらにドライフライを楽しめる川づくりを始めたグラバー

普通ならこれでおしまいなのですが、グラバーという人がすごいのは何事も徹底してやらないと気が済まない所。中禅寺湖というトラウトレイクの進化は明治政府・県庁・漁協が推進していましたが、フライフィッシングで狙える魚影は決して濃くなかったようで、グラバーは中禅寺湖へ流れ込む湯川へ着目します。

この頃はイギリスから植民地・旧植民地へフライフィッシングが輸出されてからすでに100年近く経っており、クラシック・ドライフライのフライフィッシングがピークを迎えていて、イギリスのハーディーとアメリカのオービスが川で使うショートロッドの販売や小型のフライリールを競うようになっていました。このため、北米のブルックトラウトやレインボートラウトが食用だけでなく対象魚としてもイギリスへ輸出されているような時代でした。

当然、情報通の釣りキチであるグラバーがこのトレンドを知らないはずはなく、「この湯川でアメリカやイギリスみたいなフライフィッシングを楽しみたい」、たったそれだけの想いからイギリス大使館、イギリス商工会議所、アメリカ農務省まで動かしてしまうグラバー。大使館に務めるハロルド・パーレットを巻き込んで手配を進めていき、アメリカ・コロラド州のブルックトラウトの卵を輸入して放流して奥日光の養殖コミュニティーの力を借りて繁殖に成功します。

どれだけの腕前だったかは記録に残っていませんが、恐らく当時のクラシックドライ&ニンフ、スコットランド伝統のハイランドパターンのウェットなどを使っていたことでしょう。この頃になると大島家も二代目の大島久治がグラバーをガイドしながら、中禅寺湖の漁協を本格化させており、大島家は今も「大島商店」として中禅寺湖の入漁券を販売、グラバーが繁殖させたブルックトラウトの子孫は今も奥日光を泳ぎ、現地手配に奔走したパーレットは現地におけるブルックトラウトの通名「パーレットマス」に名前を残しています。そして奥日光は今も「トラウトフィッシングの聖地」と呼ばれて、毎年たくさんのファンの心を熱くさせています。

まとめ

ともすると「死の商人だ!」(どんなに香港からアヘン売れと言われてもつっぱねた人で、全国にいて圧倒的な生産力だった刀鍛冶や弓矢職人はどうなるんだよ・・・)と呼ばれたり、トンデモ陰謀論者たちから「江戸幕府を転覆させるために送り込まれたフリーメイソンのエージェントだ!」(貴族出身でもない中流階級のビジネスマンがそんなことやっている暇あるわけないだろ・・・)などと言われるグラバーですが、実際はとても勤勉で友好的な人物で、日本の仲間やイギリスの仲間を分け隔てることなく付き合いを深める、日本とその自然を深く愛した人物でした。故郷のアバディーンでは「スコットランドのサムライ」と呼ばれるのもお世辞ではないでしょう。

世界に数多くいるフライフィッシャー、いや釣り人の中でも彼ほど徹底的にやり抜いて楽しみ抜いた人はいないのではないでしょうか。次にキリンビールを飲む時に、中禅寺湖の湖畔や湯川でフライロッドを振る姿を想い浮かべてあげてください。

グラバーの中禅寺湖の別荘は、後にリトアニア系イギリス人のハンス・ハンターに引き継がれ、彼によって中禅寺湖の釣りはルアー&フライを中心としたものに決定づけられていきます。その話はまた別の機会にて。

(オリジナルは2012年の英語版ですが、加筆して書き直しました)

参考資料&関連サイト

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